話題の開店祝い
諦めて手を挙げ大勢に従いたい誘惑にかられるが、そうすることは共通の利益に反するのだから、誤りである。
もし、われわれが本当に共通の利益が正しいことを信じるなら、たとえ他人が認めなくても、われわれは認めなくてはならない。
本質的価値が他の価値と異なる点は、それが現在一般に受け入れられているかどうかとは関係なしに価値があるということである。
本質的価値と市場価値の問には溝がある。
市場は競争の場であり、勝つことが目標である。
本質的価値は、それ自体に価値がある。
ロシアの反体制派で人権運動家のセルゲィ・コヴァリエフはかって私に生涯を通じて、負け戦ばかりしてきたと誇らしげに語ったが、私は彼のこの言葉を決して忘れない。
私はまだまだ彼の水準には達すべくもないが、私は自説を実践している。
市場の一参加者としては、私は勝利者になるべく努力し、また一市民として、またひとりの人間としては、共通の利益に奉仕するべく努力している。
ロシアで巻き込まれたケースで見たように、このふたつの役割を別々に分けておくことはときには難しいが、原則ははっ問題としてとらえる第一の場合は、われわれはフリーライダーを追放できないとしても、彼らの行動を否認することになる。
事実として容認する第二の場合は、われわれは彼らを容認し、彼らの陣営に加わることさえあるかもしれない。
フリーライダーは非難の的になることを恐れて行動を慎むことがあるかもしれない。
私が前に使った言葉でいうと、動きがとれなくなった個人は、他人が自分をどう思うかを非常に気にかける。
彼らはひたすらマネーを追求しているかもしれないが、他の人たちが市民的な美徳の価値を評価していることがわかれば、少なくとも公共心を持っているかのように振る舞うだろう。
このことは、現状に比べ非常に大きな改善である。
もちろん、人間関係の批判は、政治や社会生活では、自然科学におけるようにはうまく作用しない。
したがって、あとで失望をもたらすような非現実的な期待を持つべきでない。
科学は研究の対象となるべき、独立した外的な基準を持っているため、真実が常識と一致しなくても、受け入れられることが可能になる。
社会生活にはそのような基準が欠けている。
すでに見てきたように、もし人々が自分自身の行動の結果だけで動かされるなら、共通の利益からはるか遠くへさまよい出てし自分の個人的利益を共通の利益に優先させる人たちはつねにいる。
これはフリーラィダー(ただ乗り)問題と呼ばれ、あるゆる協調的な努力にとつて有害なものである。
しかし、われわれがこれを問題としてとらえるか、それとも事実として容認するかで、世の中はまるで違ったものになるときりしている。
唯一有効な基準は内面的なもの市民が抱く本質的価値である。
それは批判的評価を下す人間関係の過程にとつて頼りになる基準ではない。
あまりにも簡単に崩れてしまうからだ。
これまで見てきたように、社会科学は動機の問題が議論に入り込むため、自然科学のようにはうまく機能しない。
たとえば、マルクス主義者は反対陣営を敵対階級の利益を代表していると非難して、みずからのドグマに対する批判をかわしてきた。
そのため、批判的過程は、事実を扱うときより動機を扱う場合は効果が薄い。
にもかかわらず、政治は、市民が単なる功利主義でなく、善悪の判断で動かされる時にはずっとうまく機能する。
私は、このことが母国ハンガリーで起こるのを現実に見てきたが、それには革命を必要とした。
私は苦い思いで母国を去った。
民衆はユダヤ系の同胞がナチの占領時に抹殺されつつあった時、助けようと手を差し伸べることをほとんどしなかった。
私が二十年後に母国へ帰った時、雰囲気は違っていた。
それは一九五六年の革命の遺産といえた。
人々は、政治的抑圧を鋭く感じていた。
少数だが反体制派になった人がいた。
大多数は大勢順応の道を選んだが、それでも彼らは自分たちが妥協したことを意識し、妥協しなかった人々を尊敬した。
面白いことに、私が財団を設立した当時は善悪を区別する意識が一般的に強かったのに、共産党政権が崩壊するとそれが薄れてきた。
民主主義国になったら善悪を区別する意識を維持ないし復活する可能性はあるだろうか。
私は、あると信じている。
しかし、それは、他人がどう行動するかとは関係なく、あくまで自分の価値にもとづいて行動する個人の内なる衝動から発するものでなくてはならない。
一部の「だれか」が自分の基本原理を推進するために進んで立ち上がらねばならず、そのうえで他の人々がその人たちを尊敬するようになっていかねばならない。
それだけでも社会的、政治的風土を改善するのに十分役立つだろう。
これまで代議制民主主義の欠陥について述べてきたが、すでに見たとおり、民主主義と市場経済との関係はかなり暖昧だ。
グローバル資本主義システムはさまざまな政治体制(レジーム)と結びついている。
グローバル経済に対応するグローバル社会は存在せず、ましてやグローバル民主主義は存在していない。
国際関係は国家主権の理念の上に成立しており、主権国家はみずからの国益に従って行動する。
国家の利益はその国の国民の利益とは必ずしも一致しないし、国家が他国の国民の利益を気にかけることは、なおさら期待できない。
現在の仕組みには、人々の利益を守る手段は、事実上、まったく組み込まれていない。
国連は世界人権宣言を採択してはいるが、それを執行するメカニズムは備えていない。
国際条約や国際機関はいくつかあるものの、その効力や権限は主権国家から割り当てられた狭い範囲に限られている。
個々の国の内側で起きる出来事は、ほとんど国際的な監視の目を免れているのが実情だ。
国家が民主的で、市場がみずからを律することができるなら、こうした問題があっても、それでグローバル資本主義システムの存立が脅かされることはないかもしれない。
しかし、実際はそうではない。
この脅威がどれほど深刻かということは、丹念に検討してみる価値があるだろう。
そこで、まず国際関係に対する一般的な姿勢を考察し、続いて現状を眺めてみることにする。
国際関係はけっして十分には理解されていない。
国際関係には、経済学のような、基盤となる科学的理論体系はない。
もっとも、みずからを科学的と称する地政学的現実主義という名の理論(ドクトリン)は存在している。
地政学は、完全競争理論と同じく、科学が決定論的な説明や予測を与えてくれると期待されていた一九世紀に、その起源をもつ。
地政学によれば、国家の行動は主としてその地政学的、政治的、経済的条件によって決定されるという。
地政学の申し子ともいうべきヘンリー。
キッシンジャーは、地政学的現実主義の起源はさらに古く、「国家に理念はなく、あるのは利害のみ」と喝破した一七世紀のフランスの宰相、リシュリューにまで遡ると主張している(注)。
地政学的現実主義は、レッセフェール(自由放任主義)と相通じるところがある。
どちらも、主体の行動を説明あるいは予測する唯一の現実的基盤は自己の利益だとする点だ。
レッセフェールでは、主体は個々の市場参加者であり、地政学では国家である。
この両者と密接につながっているのが、適者生存こそ自然の摂理であるとする通俗版のダーウィン進化論だ。
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Tue Dec 2 04:00 PM

